北海道最北端の稚内市から車で南下すること40分。豊かな自然と広大な土地に恵まれた酪農の町、豊富町が見えてきます。この町にある「豊富牛乳公社」は、セイコーマートで販売されている牛乳や道外への小売用牛乳の生産をメインに、365日休まずに稼働しています。穏やかな春も厳しい冬も、毎日同じ時間に工場を稼働させ、牛乳を生産する日々。その日常の中で働く人達の喜びや挑戦、そして町での生活の様子を豊富牛乳公社の赤井晋さん、鈴木一希さん、永野遼太さんの3名にお話を伺いました。
30年続く牛乳生産会社がずっと守っているもの
豊富牛乳公社は、国が直接事業経営と監督を行う「公社」と名前がついていますが、1985年に豊富町とJA北宗谷が株主の「株式会社 豊富牛乳公社」と組織の形を変えます。さらに1996年にセイコーマートが資本参加し、現在の形となりました。当時の経緯を管理部の赤井さんに伺うと、
「当時、セイコーマートは 『女性客を増やしたい』と考えていました。そこで朝食の商品バリエーションを広げたいという思いがあり、何とかして北海道産の牛乳をオリジナルブランドとして発売したかったそうです。そんな折、セイコーマートの商品担当者が偶然通りがかった豊富町で「豊富牛乳」と出会います。非常に濃厚でおいしい!と、担当者はすぐに社長(故・赤尾会長=セイコーマート創設者)に報告します。結果、これだ!となり取引が始まりまったそうです。これが、豊富牛乳公社がセイコーマートのグループ会社になるきっかけとなりました」
管理部課長の赤井晋さん。オンラインでインタビューに対応していただきました。
セイコーマートでの牛乳販売により、販路が安定し、豊富牛乳公社も少しずつ経営が安定していきます。さらに「セイコーマートで販売している美味しい牛乳」と、豊富の牛乳は知名度を高めていきました。それもそのはず、ここで作られる牛乳は豊富町内の酪農家に限定した原料乳を使用しており、「原料乳の産地証明書」が発行できるほどこだわりを持って生産しています。
「弊社の牛乳はずっと豊富町で生産された生乳しか使用しておらず、変わらない味と品質を提供し続けています。当初は道内のみだった販路も、現在は生産量の半分が道外での販売になりました。遠くは沖縄まで、牛乳を出荷しているんですよ。販路が広がったことで、いろんな地域の方に、豊富の牛乳を知ってもらえるのは嬉しいです。ただそれ以上に、道外のお客様は牛乳の感想をお手紙で送ってくださる方が多いんですよね。普段、消費者の方と触れ合うことが少ない私たちからすると、このお手紙にはとても元気をもらいます」
お手紙には「濃厚で美味しかった」など、味に関する感想が多いそうです。しかし、安定した味を常に提供し続けるというのは、並大抵のことではありません。ましてや、原材料となる生乳は生き物である牛から搾るもの。病気やストレスなど、ちょっとしたことで味に変化が起きてしまうものです。
工場から車で少し走ると、一面に広大な丘陵が広がります。
「良質な生乳を提供してくれる酪農家たちの努力もありますが、弊社では牛乳の味が安定するように、機械で味覚を数値化しています。しかし、人間の舌じゃないとわからない部分もあり、官能検査を定期的に行っています。弊社の正常な牛乳と味を少し変えたものを並べて、品質管理部の専門部員がメインで行いつつも、全社員を対象にして行うこともあります。これに合格しないと残念ながら、商品として出荷できずに破棄することも...やむを得ないですが、心込めて作った牛乳なので心は痛みますね」
その他にも専用の冷蔵トラックでの運送など、「美味しい牛乳を消費者の元に届けたい」という想いから、徹底した管理を行っています。
「昔に比べると機械化された部分も多いのですが、やっぱり動かすのは人。機械のメンテナンスや調整は人の手で行うので、毎日工場を動かす上で非常に重要になってきます」
「(ドアをノックする音)コンコン...失礼します。鈴木です」
殺菌課で勤務する鈴木一希さん
ここで、殺菌課の鈴木さんが登場です。まずは鈴木さんにお話を伺います。
深刻な酪農家の廃業と人材流出。それでもこの町に留まる理由
鈴木さんは、豊富町出身。今年で入社11年目を迎え、殺菌課の管理業務を担当しています。
「生まれてからずっと豊富町にいます。なので、小学校の給食の牛乳は、豊富牛乳公社の牛乳でしたね(笑)。それくらい小さなころから身近にこの会社がありました。僕は実家が酪農をやっているので、周囲からは『家業を継ぐだろう』と思われていた部分もあったのですが、継ぐ事は全く考えていなかったです」
鈴木さんのご両親は、家業を継いでほしかったのでは?と思ったのですが、ここで豊富町が抱える深刻な問題が出てきます。
「両親は、『酪農を継がないで、他のことをしなさい』と言いました。これは、僕の実家の問題だけじゃなく、豊富町全体の酪農家にいえることで、酪農家の高齢化による廃業が問題となっています。両親が廃業を考えているかまでは聞いたことはないですが、今年(2023年)だけでも、6軒の酪農家が廃業しています」
さらに豊富町では、若い世代が就職で札幌などに出てしまうことが多く、慢性的な人手不足に悩んでいます。豊富町での就職先は、役所や農協など限られた場所になるため、自然と町外に目を向ける若者が多くなってしまうといいます。
この状況下で、鈴木さんは町外での就職は考えなかったのですか?と聞くと
「考えなかったですね。僕には、町を出る理由がありませんでした。元々、漠然とですが『牛乳に関わる仕事がしたい』と考えていて、近くにそれが叶う会社もあったことが大きいです。入社してから気づいたのですが、実家の生乳もこの工場に入ってくるので、遠回しに実家の手伝いもできているのも嬉しいですね」
楽しさと難しさが混在する、工場での仕事
鈴木さんは殺菌課の管理業務を行っていると聞きましたが、具体的にどんなお仕事を担当されているのでしょうか。
「僕は、酪農家から集乳された生乳の受け入れと殺菌、製品にするまでの作業を担当しています。全て機械で工程を行っていますが、この機械が正常に動くようにメンテナンスするのも僕の仕事です。機械にトラブルはつきものなので、無事に工場の稼働が終わると『何もおきなかった!やった!』と心の中でガッツポーズすることもあります(笑)」
機械が止まってしまうとその日の牛乳生産に大きな影響を及ぼすため、鈴木さんは非常に重要なポジションです。多大なるプレッシャーを感じる状況なのでは?と聞いてみると...
「プレッシャーは、あまり感じないかもしれませんね...実は、修理はうまくいかない事の方が多いんですよ(笑)それで心が折れてしまう時もあります。でも『何があっても自分たちで乗り切る。絶対に直してやる』という強い気持ちで、作業にあたっています。なので直った時には、すごく達成感があり、一番やりがいを感じられるタイミングかもしれません」
そう話す鈴木さんは、照れ笑いの中に少しだけ誇らしげな表情も垣間見れました。最後に鈴木さんに豊富町の好きなところを伺いました。
「身近に自然が多く、なにもないところですかね。札幌や旭川のようにビルが多い街中も憧れはありますが、僕はこの土地が好きです。個人的にマラソンが趣味なので、この自然の中を走っていると、さらに良さを感じます」
巡り巡ってこの町へ。今はこの土地で出来ることをやる
鈴木さんと交代で、次にお話を伺ったのは乳製品作業担当の永野さん。東京出身で、大学進学をきっかけに北海道へ移住。東京から豊海町に来るまでに、いろいろなドラマがありそうです。
鈴木さんと同じく殺菌課で勤務する永野遼太さん
「ドラマがあるかわからないんですけど(笑)。北海道大学の文学部に進学し、考古学や土器石器などを研究していました。と、同時にキャンパス内にあるセイコーマートでアルバイトもしていたんです。北海道ならではの商材や、お店にくる社員の人がイキイキ働いている姿が印象的で、僕もここで働きたいと思いました」
なんと永野さんは、就活をセイコーマート1本に絞り、見事内定をゲット。入社後は、スーパーバイザーとなり道南日高地区の店舗商品管理や現場の声を聞いたりと、札幌と日高を往復する毎日だったそうです。
「充実した日々を過ごしていたのですが、ある日上司から『永野さん、豊富町で牛乳をつくるかもしれない』と言われ...その話を聞いた時『あの豊富牛乳の生産地に行けるなんて!』と、僕は楽しみでワクワクしてしまって(笑)その後正式に辞令が出て、豊富牛乳公社に出向しました」
いきなりの辞令にも前向きに受け取ってしまう永野さんの言葉には、一点の曇りも感じません。本心からそう思ったそうで、このお話をされている時の目は輝いていました。元々製造にも興味があったのか聞いてみると。
「そうですね、セイコーマートのお客様を魅力し続ける商品に興味があったので、製品製造に関われる方がむしろ嬉しかった部分もあります。僕がアルバイトをしていた時に、セイコーマートの商品からは製造に関わった人の愛を感じることが多かったんですよね。良いものを届けたいと本当に想っているのが伝わってくる。これを僕も直接見て、感じてみたかったのがあります」
感じるだけじゃなく、実際に製造に関わることになったのもまたすごい巡り合わせです。縁あって、豊富町にきた永野さんは、今どのようなお仕事を担当されているのですか?
「業務用のバターや生クリームの製造作業をメインで担当しています。ただ、業務用なのでセイコーマートで、そのままの形で販売はしていないです。ケーキやアイスなどに加工された形で、消費者の元に届けられています」
自分で作った物が、実際にセイコーマートに並ぶ喜びを噛み締めつつも、永野さんは出向で豊富牛乳公社に来ているので、いつかは異動でこの地を離れなければなりません。その点を聞いてみると...
「仕事の面でいうと、機械のメンテナンスを行いやすい環境にして、僕の次に来る人につなぎたいと思っています。なので、もっと効率的にできる部分がないかを探していきたいです。個人的には、登山が趣味なので、この最高な環境で登山が出来なくなるのは寂しいですね...。先日も日帰りで利尻富士に登ってきたんですよ」
晴れた日には、豊富町の海岸から肉眼で利尻富士を拝むこともできるそうで、自然が本当に近いことが伝わってきます。永野さん自身も豊富町に来てから、登山が趣味となり、登山を通して工場の人たちとの絆が深まった部分もあるようで...
「みんな多趣味で、サイクリングや釣りが趣味の人が多いです。自然に事欠かない環境なので、トライしやすいというのもあるのかもしれません。車を運転しながら見る豊富の景色は、どこを切り取っても絵になる美しさがありますよ」
豊富町での生活を満喫している永野さんに、これからの事を聞いてみました。
「豊富町にきて約1年半、生活にも慣れてきました。また何年か後にくるかもしれない異動を今気にしていても仕方がないので、この地でできることを精一杯やっていきたいです!安心安全な商品をお客様にお届けできるように、今後も気を引き締めて頑張っていきたいです」
ここでしか出来ない、自分たちにしか出来ない仕事
「普段仕事への想いなどを聞く機会がないので、鈴木と永野があんな風に考えて仕事をしてくれているなんて知りませんでした。胸が熱くなる話ばかりで、嬉しかったです」
鈴木さんと永野さんのおふたりが現場に戻ったあと、赤井さんは開口一番にこう話してくれました。部下たちから、仕事にかける情熱や姿勢などを聞く機会はほぼないそうで、貴重な機会となったと、頬を緩ませます。しかし赤井さんも、鈴木さんが話していた酪農家の廃業や人材不足を懸念しているそうです。
「このままだと豊富の牛乳が飲めなくなる未来が来るのではないかと危惧しています。酪農家の廃業と若い世代の流出は、私自身も最近は特に身をもって感じることも多いです」
しかし、豊富町と豊富牛乳公社もこの状況に、ただ指を加えて見ているだけではありません。豊富町では、町外からの移住者に支援金を交付(2023年11月現在)し、町内への引越しを後押ししています。豊富牛乳公社でも、働いてくれるために移住する人が暮らしやすいように社宅を増やし、環境を整えています。
「正直に話すと、工場での仕事は体力勝負なので、ラクではありません。生活も都会に比べると不便な部分もあると思います。でも、『自分たちにしかできない』という誇りを持って出来る仕事は、この世の中でそんなに多くはない。ここには、その仕事があると私は思っています」
みんなが守っているバトンを、まだ見ぬ誰かへ
赤井さん、鈴木さん、永野さんのお話を伺って、工場での仕事の価値観が変わる瞬間がたくさんありました。
それまでの工場のイメージは「作業をきっちり行うことがメインで、個人の気持ちはあまり関係ないのかな?」と思っていたのですが、全く違いました。味に対するこだわりだったり、待ってくれている人の元へ安心安全な牛乳を届けるという気持ちがなければ、美味しい牛乳は私たちの食卓には届かない。「自分にしかできない」仕事をしているという自負が、牛乳を守ってくれているんだなと感じました。今は赤井さんたちが守ってくれているバトンが、次の世代に渡っていくことを強く願っています。
...そういえば、最後に赤井さんに「牛乳はお好きですか?」と聞くと「実は飲めなくて、豆乳派です」とのこと(笑)
最後の最後にお茶目な赤井さんも見れた瞬間でした。