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Wednesday, September 1, 2021

米兵が殺到 あまりの忙しさに「のれん分け」 沖縄ステーキの草創期を支えた喜界島出身者 - 沖縄タイムス

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沖縄ステーキ史(1)

 戦後の混乱期が終わり、ようやく経済復興の兆しが見え始めた1950年代。沖縄初のステーキハウスが越来村(現・沖縄市)で誕生した。発祥とされるのは2店舗あるが、どちらも鹿児島県喜界島出身の渡米経験者が、米国で身に付けた調理や接客の技術を生かし米兵相手に商売を始めた。

沖縄の食文化に根付くステーキ(資料写真)

 米国流の飲食店がほとんどなかったため、ステーキハウスには米兵が殺到。深夜まで客足が衰えることはなく、店は活況を呈した。毎日朝早くから仕入れや調理と接客に追われ、寝る間もないほどに忙しかったという。

 沖縄戦後の米軍占領下。生活物資にすら困窮し、皆が生きるのに必死だった頃の話だ。ステーキハウスの従業員たちも日々の糧のため無我夢中で働いた。

 そんな経済情勢の中ではステーキは超高級品。県民の生活とはかけ離れた別世界で、沖縄のステーキ文化は幕を開けた。

■米国での経験

沖縄でニューヨークレストランを経営していた頃の元山嘉志富氏

 「周りに米兵相手のお店がないから、開店からずっと満席。米軍の給料日には行列もできて、とにかく毎日忙しかった」。1951年に越来村(現・沖縄市)照屋に「ニューヨークレストラン」を開いた故・元山嘉志富(かしとみ)氏の四女・富枝さん(76)は、当時をこう語る。

 嘉志富氏は1892年生まれ。職を求めて、28歳で米ニューヨークに渡った。喜界島では、東京や大阪だけでなく、海外の都市で働き、稼いだ金を実家に送る「出郷者」が多かった。

 嘉志富氏は、富豪の使用人などを経て、ニューヨークでレストランを経営するまでになる。だが、太平洋戦争開戦の41年、49歳で喜界島に帰島した。

 終戦直後の厳しい生活の中、語学と料理の経験を生かした商売を立ち上げようと、59歳の時に米軍が駐留する沖縄本島でニューヨークレストランを創業した。

■店は常に満席

 ニューヨークレストラン開店前の1950年は、朝鮮戦争が勃発した上、米軍の基地建設が始まり「街中に米兵があふれていた」(富枝さん)。数少ないステーキハウスに故郷の味を求めて、米兵が集まった。

 30人程度が入る店内は常に満席。テンダーロインステーキやハンバーグステーキのほか、ハンバーガー、サンドイッチも飛ぶように売れた。

 富枝さんは「米兵は食べる量も多く、スピードも速い。食べたら、さっさと出て行くんだけど、次から次へとやってきた」と話した。

 皮むき器も食洗機もなく、全てが手作業のため、仕込みは一家総出の仕事だった。富枝さんも小学生の頃から、ジャガイモとタマネギの皮むき、インゲンの筋取りを手伝った。

■島から呼び寄せ

喜界島から呼び寄せた若者たち。前列右の徳富清助氏はビジネスセンター通り、同左の守内氏は名護市辺野古に店舗を構えた=1950年代、沖縄市のニューヨークレストラン

 あまりの忙しさに嘉志富氏は、喜界島から若者を呼び寄せる。そして、調理技術を教えたら次々とのれん分けし独立させた。52年には都市整備が始まった越来村のビジネスセンター通りにのれん分け1号店が出店。53年には今も人気の高い老舗店ジャッキーステーキハウスの前身が嘉手納村にオープンした。

 富枝さんは「雇うだけでは忙しさが解消されなかったので、店舗を増やして来店客を分散させた」と説明する。のれん分けした店舗のほとんどがニューヨークレストランを名乗った。のれん分けは15店舗を超え、ほとんどが喜界島の出身者が経営していた。

 米軍占領下で全国から取り残され、経済復興が遅れていた沖縄と奄美群島。職がない中、米兵相手に生計を立てようと、沖縄本島に出てきた喜界島出身者が沖縄ステーキの草創期を支えたと言える。

 嘉志富氏はニューヨークレストランを3店舗まで経営するが、62年に70歳で引退し、喜界島に引き上げた。富枝さんは「小さな島から商売を成功させた。のれん分けしたオーナーからは、今でも感謝されている」と話した。(編集委員・照屋剛志)

<沖縄ステーキ史(2)に続く>

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